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(西部アマゾン地域の日本人数と仕事) |

| 家族数 | 人口 | 仕事 | |
| 【アマゾナス州】 | |||
| マナウス市内 | 300 | 1.200 | 商工業 会社員 その他 |
| ベラビスタ移住地 | 22 | 130 | 農業、養鶏、果樹 |
| エ・サーレス移住地 | 34 | 180 | 同上 |
| カ・グランジ移住地 | 17 | 100 | 同上 |
| パリンチンス・マウエス方面 | 34 | 180 | 牧畜、商業 |
| 【ロンドニア州】 | |||
| トレーゼ セテンブロ移住地(ポルトベーリョ近郊) | 40 | 200 | 農業、商業 |
| アリキメス | 20 | 120 | 農業、商業 |
| シバラナ市近郊 | 20 | 120 | 農業、商業 |
| 【アクレ州】 | |||
| リオブランコ市近郊 | 70 | 300 | 農業、商業 |
| 【ロライマ州】 ボアビスタ市近郊 |
25 | 120 | 農業、商業 |
| 【カショエラ・グランデ移住地】 「大きい滝」の意味。かってマナウスの東7キロ年の原始林にあったが、現在では成長したマナウス市の市街地となりつつある。1967年、受け入れ体制の劣悪な各移住地を飛び出した日本人有志が独自に共同で土地購入し農業に従事、近郊農業地としてスタート。1979年に電化された。80年代初期にはこの移住地の創設者で教祖的存在だった門正一氏が殺害される迷宮事件もおきたが、現在では1ヘクタールの低温温室のある蘭科植物専門農園なども誕生するなど急速に発展し、現在23家族が住んでいる。 この農業移住地は、1980年代に入りマナウス市への日系企業の進出などによるマナウス市域の拡大によって、今や市街地に変わりつつある。1988年には、日本人生物研究者が独力で自然科学博物館・水族館を創設。年間1万人以上が訪れるアマゾン州唯一の自然博物館として高い評価を受けている。 また、進出企業子弟向けのマナウス日本人学校や、日本人牧師による独自の教育方針による全日制小学校もでき、文教地区としての姿をなしつつある。さらにゴルフ、プール、テニスコート、屋内体育館などスポーツ施設の完備したカントリークラブも完成、週末には、ブラジルでも珍しいほど進出企業社員やその家族と日系移民が和気あいあいとともに楽しむ場となっている。 アクセス: 市の中心より車で20分。 |
| 【ベラビスタ移住地】 「美しい岸辺」の意味。マナウス市の北、川幅7キロのネグロ河を渡りマナカプール街道に沿って、1953年9月に第1次23家族139人が移住。1962年までに139家族818人が移住したが、1954年、同地を訪れた大宅壮一氏が「緑の地獄」と評した地として知られる。 入植当時、受け入れ体制がまったくないといってよく、移住者は道路沿いにわずかに住居を建てる面積だけ切り払われたジャングルの中に数キロおきに放置された。それでもまだ第1次移住者は良い方で、その後入植した第2次、第3次の移住者の家族らには住居用地すら準備されていなかった。電気はもちろん道路もないジャングルの小道を、土砂降りの雨の中、荷物を自ら肩でかついで運ばざるを得なかった。この劣悪な環境のためにわずか2年後の1955年から離農者が続出、ベレン、サンパウロ方面に脱出する人が後を絶たなかった。 現存するのは22家族。入植30年後の1983年電化工事がようやく完成し、移住地の中心部に「集会所」が建設された。養鶏、熱帯果樹、胡椒、野菜、牧畜を経営。交通はネグロ河をフェリーで渡り、生産物を出荷している。 【注】「緑の地獄」(インフェルノ・ベルデ)とは日本では大宅氏の言葉で有名になったが、元々はブラジルの大詩人がアマゾンをたたえ「野心多き者には緑の地獄。こころ豊かな者には緑の天国」という意味の詩を書いたのが始まりである。 ◎アクセス: 車でフェリーに乗って1時間。 |
| 【エフィジニオ・サーレス移住地】 ブラジル発展に功績のあった人の名にちなんで命名された地名。マナウス市から東方へイタコチアラ街道の両側に約35キロにわたって続く移住地。1958年11月、17家族118人の移住者をはじめとして1961年8月までに54家族が入植した。その後発展し一時は82家族を数えたが、過酷な自然状況、販路のなさなどから離農者が続出し、現在は34家族。養鶏、果樹、牧畜などの複合農業など営みマナウスへ出荷。現在では「マナウスの台所」となっている。 移住地の中心は37キロ地点にあり、自治会事務所、会館、農協、初等小学校、自治会運動場があるが、これらも移住者の大きな努力によってできたものである。教育はブラジル語で行われているが、毎週1度、日本語教室が開かれ、日系2世、3世に言葉や野球、折り紙などを教えている。今では、各家庭が携帯電話で連絡を取りあっている。 ◎アクセス: 市内より車で45分。 |
| 【パレンチンス】 かって居住していたパレンチンチン族に由来する地名。人口約3万人。アマゾナス州第2の島。 1931年から高拓生ら約401人が入植したジュート栽培の本拠地「アマゾニア産業研究所」の本部がその郊外にあった。 1953年に戦後第1回の移民17家族54人がジュート栽培を目的として入植した。しかし、過酷な労働に大半が挫折し現在続けているのは2、3家族にすぎない。 このことからもうかがえるように戦前入植しこの地で奮戦した高拓生らは、ブラジル移民史のなかでも「スジ金入り」の人々だった。 現在も10数名の高拓生ら80余人が住んでいるが、現地女性との間に生まれた数多い子弟の多くは日本に出稼ぎに来ている。 毎年6月末に行われる「フェスタ・デ・ボイ」(牛の祭り)には年々盛んになり、1995年には数万人の観光客が集まった。 ◎アクセス: 船で10時間。飛行機で40分。 |
| 【マウエス地区】 インディオのマウエス族の居住地に由来する地名。人口6000人 マウエス河の右岸、マナウスから南東約400キロ付近にある水の澄んだ白砂の川辺にある景勝の地。 この景色に魅せられ薬用植物のガラナ栽培を目的としてアマゾン興業株式会社を設立したのが、京大出身の大石小作である。1930年初頭に19家族・単身者ら合計110余人で入植した。さらに1932年には日本植民学校のキリスト教徒・崎山比佐衛が10人で入植。 しかし、両プロジェクトとも、ガラナが相場で左右される作物であり思ったように売れず、また「澄んだ水」は酸性度が低いためマラリア蚊の好生息地であったことから多くの人々が死亡する悲劇に見舞われた。移住後数年を経ずして、生存者はマナウス方面に脱出した。崎山校長も1941年にマラリアで死亡。大石氏は再三の帰国の誘いを断り、1970年代まで同地で墓守を続け亡くなっている。現在では日本人3家族と日系2世、3世が数人が住む。 ◎アクセス: マナウスより船で10時間。飛行機で50分。 |
【アクレ州・リオブランコ市の日系人】 人口約20万人のブラジルの最西端のアクレ州の州都。州の人口100万人弱で牛が数百万頭といわれる牧場地帯。ボリビアとペルーに隣接する。森林保護のリーダー、シッコ・メンデスが開発派に暗殺された事件は欧米人による映画化が進んでいる。リオブランコ市には東北ブラジル地方出身の内国移民者が多く、天然ゴムの樹液採集に携わる。1970年代にボルトベーリョからリオブランコへ国道364号が開通し転入者が増加した。産業は牧畜のほか、バナナの生産州でもある。 日系人としてはペルー下りの古野功さんが1920年にペルーからボリビアを経てブラジル国境の町よりアクレ河を下り、リオブランコにたどり着き農業に従事。1987年に他界した。古野さんは、1959年に日本人移民13家族91人がキナリー移住地に入植するまでの約40年間日本語を使用する機会は全くなかったという。キナリー移住地に入植した13家族の内、2家族が農業に従事しているほかは、マナウス、ベレン方面に生活の拠点を移動した。 リオブランコから西のペルーに通じる国際道路が完成すればアクレ州は交通の要所として発展するが、この横断道路はアマゾンの自然環境保護の声に押し流されて、計画は中断している。この背後には、穀物の南米からのダイレクト輸出を好まない米国の力もある、と言われている。 ブラジル標準時間より2時間の時差があり(マナウスより1時間)アクレ日伯文化協会も活発な活動を続け、2世3世に対する日本語教育も実施されている。市内には約80家族のサンパウロ方面から移り住んだ日系移民2世らが商工業その他の分野で活躍している。 ◎アクセス: マナウスからジェット機で1時間。ボートベーリョから同20分。サンパウロから直行便もある。 |
| 【ロンドニア州内の移民地】 アマゾン奥地のグアジャラミリンはアマゾン河支流・マデイラ河にあるボリビアとの国境の町。国道の開通で、ポートベーリョにその集積地としての繁栄を奪われた。 この町には1912年、「ペルー下り」の日本人が足跡を残したという記録がある。このコースは「ペルー下り」のメインルートで、ここからさらにポートベーリョへ入り、マナウス、ベレン方面へと転出した日本人もいる。 ○トレーゼ・デ・セテンブロ移住地(「9月13日」の意味) ポートベーリョはマデイラ河のほとりにあり、今はガリンペーロ(金採り)として賑わっている。 1954年7月、29家族180人の日本人移住者がゴム栽培を目的として移住。ボルトベーリョ市から11キロ地点に移住地が敷設された。ゴムを植え自給自足して米、トウモロコシ、バナナ、マンジョカ芋などを栽培、家畜飼育、野菜栽培しボルトベーリョ市で販売。1977年電化。1981年に電話が架設された。移住地を含めて日系40家族が各分野で活躍中。 ○アリケメス移住地 ポルトベーリョ南約140キロ。1984年にはサンパウロ方面から転入した日系住民150家族が農業などを営んでいたが、現在は日本への出稼ぎで激減、約30家族が居住しているにすぎない。背景には当初、農業開拓の最前線と期待されたが国際的に環境問題が重視されるようになって開発にブレーキがかかり農業用地の拡大が望めないという問題がある。 ○ジ・パラナ移住地 アリケメスからさらに東に約200キロ地点にある。現在の日本人は約20家族。日本への出稼ぎで日系人移住者が激減し日本人会活動も中断している。 |
| 【ロライマ州 ボアビスタ移住地】 美しい景色の意味。ボアビスタはアマゾン州の北にあるロライマ州の州都。ブラジル国内唯一北半球にある州。ベネズエラの首都カラカスと道路が開通しており、全線舗装工事が1995年暮れに完成する。マナウスからは約800キロ。 1955年ボアビスタ市内に2家族、タイアーノ移住地に11家族が移住した。1961年9家族と単身者ら53人が移住したが、その後、大半がボアビスタ、ベレン、マナウス方面に転出し現在では数家族が住んでいる。 ◎アクセス: マナウスから車で12時間。ジェット機で40分。 |