【アマゾンの日本人の歴史】 



日本の23倍の国土のブラジルの人口は1億6000万人。しかし、その面積の4分の1を占めるアマゾナス州の人口はわずか280万人です。ネグロ河の北に位置する州都マナウス市には160万人が住んでいます。


 アマゾンは19世紀末から、天然ゴムの産地として大発展し、その中心地マナウスは世界でもっとも裕福な都市となりました。アメリカの自動車の大普及に伴うタイヤのゴムの需要をアマゾンが一手に担ったのです。経済も急速に発展し、現在の時価にして500億円以上ともいわれるオペラハウスを作るなどの、いわば「ゴールドラッシュ」のような様相を呈し、一時は「マナウスかパリか」という時代すら迎えました。しかし、その後イギリス人がアマゾンから持ち出したゴムの種をマレー半島で栽培に成功したため「アマゾンの繁栄時代」は一時の夢と消えました。


 日本人がこのアマゾナス州に入ったのは1920年代です。最初の移住者は山根某さんら10余人といわれています。山根さんらはペルーに農業移民したのですが、その生活は農場主の搾取など過酷で、実体は「農奴」といってもよいほどでした。「ブラジルではゴムで百万長者になれる」という噂を聞いて、ペルーを脱出。数年がかりでマナウスにたどりつきましたが、マナウスに着いたときは、もうブームは去った後でした。


  このアンデス山脈を越えての逃避行は、後に日系人の間で「ペルー下り」と呼ばれる「伝説の冒険」として語り伝えられています。山根さんはその後、商業・運送業で成功し子孫はマウエスに健在です。


 ゴム景気が去ってすっかりさびれたアマゾンに再び活気を吹き込んだのは日本による開拓プロジェクトでした。1930年代、「高拓生」と後に呼ばれる「日本高等拓殖学校生」の活躍です。上塚(うえつか)司氏によって設立されたこの学校はアマゾン開拓リーダーを養成するのが目的でした。

  1931年第1回47人の移住者を皮切りに1938年までに高拓生とその家族ら401人が「アマゾニア産業研究所」経営の移住地に入植しました。その一人、尾山良太氏が不屈の努力で育てたジュート(黄麻)が、アッという間にコーヒーの袋としての需要を勝ち得ました。アマゾニア産業のプロジェクトは後に第二次世界大戦によりブラジルが連合国側に加盟したためブラジル政府に没収されるなどの悲劇に遭いながらも、ジュート産業自体は順調に発展し、マナウス上流のソリモンエス河からパラ州サンタレン方面まで1000キロを越す広大な地域に広がり、アマゾンの人々の生活向上に大きく貢献しました。


 戦後、移民再開によって1953年第1回ジュート移民17家族54人がアマゾン中流流域に入りましたが、現在ではプラスチック産業の発展により、天然素材であるジュート産業は歴史的使命を終えました。けれども、この間のジュート産業が輸出梱包材として果たした役割は、日本人移民が同国で高い評価と尊敬を受けた要素のひとつとして#歴史に輝く偉業であったといえましょう。

 現在、日伯関係は、農業から工業の時代にはいりました。1957年マナウスはアマゾン開発のために「自由貿易港」として法制化され1967年にスタート。工業団地が造成され、日本の優良企業が進出、操業中です。それを支える幹部の多くがかっての農業移民の子弟です。現在のブラジルのテレビ、ステレオ、AV機器の、オートバイ、時計のすべて、セガ、任天堂系のゲーム機器のライセンス生産も行われる内陸の大工業地帯として発展を続けています。

( 日伯修好100周年記念誌「アマゾン1995」による)